最高裁判所第二小法廷 昭和43年(行ツ)95号 判決 1973年9月14日
上告人
広島県教育委員会
右代表者
真田安夫
右訴訟代理人
真野毅
田中真次
外四名
被上告人
今田澄男
右訴訟代理人
佐伯静治
原田香留夫
外三名
主文
原判決を破棄する。
本件を広島高等裁判所に差し戻す。
理由
上告代理人田中真次の上告理由、同堀家嘉郎、同中場嘉久二の上告理由および同真野毅、同堀家嘉郎の上告理由について。
論旨は、まず、本件降任処分を不適法であるとした原判決の判断には、降任処分につき任命権者に与えられた裁量権の範囲および地方公務員法二八条一項三号の定める降任処分の要件に関して法令の解釈を誤つた違法がある、と主張する。
一おもうに、地方公務員法二八条所定の分限制度は、公務の能率の維持およびその適正な運営の確保の目的から同条に定めるような処分権限を任命権者に認めるとともに、他方、公務員の身分保障の見地からその処分権限を発動しうる場合を限定したものである。分限制度の右のような趣旨・目的に照らし、かつ、同条に掲げる処分事由が被処分者の行動、態度、性格、状態等に関する一定の評価を内容として定められていることを考慮するときは、同条に基づく分限処分については、任命権者にある程度の裁量権は認められるけれども、もとよりその純然たる自由裁量に委ねられているものではなく、分限制度の上記目的と関係のない目的や動機に基づいて分限処分をすることが許されないのはもちみん、処分事由の有無についても恣意にわたることを許されず、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮して判断するとか、また、その判断が合理性をもつ判断として許容される限度を超えた不当なものであるときは、裁量権の行使を誤つた違法のものであることを免れないというべきである。そして、任命権者の分限処分が、このような違法性を有するかどうかは、同法八条八項にいう法律問題として裁判所の審判に服すべきものであるとともに、裁判所の審査権はその範囲に限られ、このような違法の程度に至らない判断の当不当には及ばないといわなければならない。これを同法二八条一項三号所定の処分事由についてみるに、同号にいう「その職に必要な適格性を欠く場合」とは、当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質、能力、性格等に基因してその職務の円滑な遂行に支障があり、または支障を生ずる高度の蓋然性が認められる場合をいうものと解されるが、この意味における適格性の有無は、当該職員の外部にあらわれた行動、態度に徴してこれを判断するほかはない。その場合、個々の行為、態度につき、その性質、態様、背景、状況等の諸般の事情に照らして評価すべきことはもちろん、それら一連の行動、態度については相互に有機的に関連づけてこれを評価すべく、さらに当該職員の経歴や性格、社会環境等の一般的要素をも考慮する必要があり、これら諸般の要素を総合的に検討したうえ、当該職に要求される一般的な適格性の要件との関連においてこれを判断しなければならないのである。そしてこの場合、ひとしく適格性の有無の判断であつても、分限処分が降任である場合と免職である場合とでは、前者がその職員が現に就いている特定の職についての適格性であるのに対し、後者の場合は、現に就いている職に限らず、転職の可能な他の職をも含めてこれらすべての職についての適格性である点において適格性の内容要素に相違があるのみならず、その結果においても、降任の場合は単に下位の職に降るにとどまるのに対し、免職の場合には公務員としての地位を失うという重大な結果になる点において大きな差異があることを考えれば、免職の場合における適格性の有無の判断については、特に厳密、慎重であることが要求されるのに対し、降任の場合における適格性の有無については、公務の能率の維持およびその適正な運営の確保の目的に照らして裁量的判断を加える余地を比較的広く認めても差支えないものと解される。
二本件は、地方公務員法二八条一項三号の規定に該当するとして、被上告人を公立学校校長から公立学校教員教諭に降任した処分の取消訴訟であり、上告人は、被上告人が公立学校校長の職に必要な適格性を欠くことの徴表たる事実として数多くの事実を主張している。
ところが、原判決は、右上告人主張の諸事実については、必ずしも個々の事実関係の存否を確定することはなく、右主張にあらわれた被上告人の一連の行為の背景をなす諸問題につき、その客観情勢の推移、被上告人の置かれた立場およびそのとつた見解、態度等の概略を認定したうえ、かりに被上告人に上告人主張のような具体的言動(その一部については、原判決認定の限度で一部否定ないし修正された範囲内における言動)があつたとしても、右各事実はいずれも被上告人が校長の職に必要な適格性を欠くことの徴表であるとは認めがたいとし、結局、総合的見地から考察して、被上告人には包容力、協調性において若干欠ける点があつたのではないかと疑う余地は存するとして、それだけで校長としての適格性なしと判定することは許しがたいものであるとし、本件降任処分を取り消すべきものとしている。
三しかしながら、原審の右認定判断は、その認定事実に対する独自の解釈と見解のもとに上告人の具体的な各主張事実を観察評価したうえ、被上告人の適格性の有無について一定の結論を下し、これと異なる上告人の判断を裁量権の行使を誤つた違法のものと断じているのであつて、原審の判断には、上告人が本件降任処分の事由の存否について上記のような裁量的判断権を有することを無視したか、ないしは裁判所のなすべき審査判断の範囲を超えて処分庁の裁量の当否に立ち入つた違法があるといわなければならない。すなわち、
(一) 学校統合問題につき、原判決の確定するところによれば、右統合は、長束小学校の廃校を招来するものであつて、同校の児童、その父兄の利害に直接関係するところから、右統合につき町議会の議決を経たのちにおいて統合賛成派と統合反対派の対立はなお激しく、それは単なる意見の対立にとどまらず、両者互いに相手方の見解、行動を非難、誹謗し合うという醜い対立を生むにいたつたというのである。
町立小学校の校長は、当該町区域在住の児童に対し義務教育たる初等普通教育を施すことを目的とする教育機関である小学校において、校務を掌り、所属職員を監督する立場にある者であるから、右のような事態において、校長が、統合反対派に加担するような言動に出るときは、両派の対立の激化を助長し、児童、父兄等の校長および学校に対する信頼、所属職員の校長に対する信頼を大いに失墜させ、ひいては学校経営に重大な支障をきたす結果となることは、見易いところである。したがつて、このような場合に、長束小学校長の地位にある者が、教育上の見地から右統合に反対の見解をもつことはやむをえないことであり、また、立場上学校統合問題と無関係ではありえないとしても、右校長たる者は、行動、態度の上では校長としての品格と節度を保持すべきであつて、いやしくも校長たるの立場を利用して反対派に加担し、これに便宜を与えるものと認められるような行為に出るときは、校長たる適格性に欠けることがあるとの評価を免れないものといわなければならない。
しかして、この点に関しては、原判決の認定の限度で一部否定ないし修正された範囲において考えても、なお、相当程度、被上告人が、同校の所属職員に協力させ、同校の児童、施設、行事を利用して、統合反対のために便宜をはかつた事実が、上告人によつて主張されているのである。したがつて、右主張につき、認定しうる言動の程度、態様のいかんによつては、これを被上告人が校長たる適格性を欠くことの徴表であると評価しても、不相当であるとはいいえない場合があることは、否定しえないところである。
(二) 職員が、ある程度客観性、合理性の認められるその所信に従つて、あえて職務命令違反の行為に出たような場合には、それが直ちに持続性のあるその性格等に基因するものであるとはいいえないという意味において、右行為が懲戒事由とはなりえても、直ちにその職に必要な適格性を欠くことの徴表であるとはいいえない場合もありえよう。こうした見地からすれば、勤務評定問題につき原判決の確定する事実関係のもとにおいては、特に被上告人において、所属職員が人事上の不益を受けることをおそれたこと、任命権者の人事管理上の支障を回避すべきものであると考えたこと等から、本来の義務履行に代わる措置を講じていることをも考慮した場合、勤務評定書の提出を多少遅延したこと自体をもつて直ちに被上告人が校長たる適格性を欠くことの徴表とみることは、あるいは相当でないといいうるかも知れない。
しかし、校長たる者は、管理者的職務を担当するのであるから、特に対人関係の処理については相手方に顕著な欠陥があるというような特段の事情がある場合は格別、自己と個人的、感情的には対立関係にある者との接触をも含めて、職務上予測されるあらゆる場面において、職務の円滑な遂行に支障をきたさない程度にこれを処理しうる能力が要求されるというべきであるところ、この点に関連するものとして上告人の主張する被上告人の言動は、それが対立関係にある者の交渉の場におけるものであることを考慮しても、なお、校長たるの職にある者の上司である町教育長に対する言動としては、粗暴、不遜、非礼にわたる点があり、そのうちには、ことさら藤井教育長を困惑させる目的に出たものであることを疑わせるようなものもあるのであつて、右主張につき認定しうる言動の程度、態様のいかんによつては、これを被上告人が校長たる適格性を欠くことの徴表であると評価しても、不相当であるとはいいえない場合があることは、否定しえないところである。
(三) 原判決の確定する公立学校予算の執行の実情からすれば、予算の事前執行等をしたこと自体をもつて被上告人が校長たるの適格性を欠くことの徴表とみることはできないという余地はあるけれども、それが全体的な学校予算の不十分に由来するものであることから考えれば、同町内の他校との関連において、事前執行等による支出の予算規模に対して占める割合、あえて支出の事前執行等に出る必要性についての判断の当否といつた点において、上告人主張のような事実の存在は、事情によつては、企画力、協調性などの面から、なお、被上告人が校長たる適格性を欠くことの徴表であると評価しても、不相当であるとはいいえない場合があることは、否定しえないところである。
(四) 校長たるの職に適合する言動は、通常の場合においてのみ要求されるものではない。右三の(一)(二)で説示したところからすれば、被上告人の小学校長としての日常行動に関連して上告人の主張するところを、原判決説示のような理由によつて校長たるの適格性を欠くことの徴表と認めることはできないものと解することはできない。
(五) 本訴提起後の行為についての主張には、学校日誌の記載の抹消等が含まれており、行為の性質からすれば、原判決説示のように軽視してよいものではない。それは、本件降任処分後の行為ではあるけれども、右処分の事由は個々具体的の行為ではなく、その職に必要な適格性を欠くことであるから、少くとも、上告人主張の被上告人の各行為のうち右処分以前になされたものを不適格性の徴表とみうるか否かを判断するための資料となりうるものというべきである。
四なお、被上告人が昭和二四年以来校長を勤めている者であることは、上告人も認めるところであり、被上告人が校長の職に必要な適格性を欠くことの徴表たる事実として上告人の主張する事実の大部分は学校統合問題が発生した昭和三二年以降の限られた時期に集中しているけれども、それだからといつて、直ちに、本件降任処分時において被上告人がその職に必要な適格性を欠いていたという事実が否定されるべきことになるわけではない。
結局、上告人主張の徴表たる事実を認めうる程度いかんによつては、本件降任処分を違法とはいいえないことになるのであるから、原判決には、法令の解釈を誤り、その結果審理を尽くさなかつた違法があつて、その違法が原判決に影響を及ぼすものであることは、明らかである。したがつて、論旨は、この点においてすでに理由がある。
五以上の次第で、原判決は、その余の論旨について判断するまでもなく破棄を免れない。そして、本件は、さらに被上告人の本訴請求の当否について審理する必要があるので、本件を原審に差し戻すのが相当である。
よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員一致で、主文のとおり判決する。
(小川信雄 岡原昌男 大塚喜一郎)
上告代理人田中真次の上告理由
原判決は、公務員法上の任命権者の裁量権に関する最高裁判所の判例の趣旨に違背し、また、公務員法上の分限処分の性質を誤解し、その結果、法の解釈適用を誤つた違法があると考えます。以下分説したいと存じます。
第一、任命権者の裁量権について
(1) 一般的に、通常裁判所が行政庁の処分の適否を判断するに際しては、その限界を考えなければならない。アメリカ法ではSope of reviewの問題として論じられsubstantial evidenceの原則が支配する。このような考え方の基本は、行政の専門家でない通常裁判所の裁判官は、行政の専門家の判断を尊重するということにあると思われる。行政手続に関する法が完備せず、行政委員会制度の発達していないわが国で、このような考え方をそのまま取り入れることはできないが、ヨーロッパ大陸諸国と違つて、わが国の通常裁判所が行政処分の適否を判断するに際しては、常に頭に置いていなければならない問題と考える。そして、わが国の現状では、法が行政機関に裁量権を与えている場合には、裁判所は、その裁量権の幅を広く認め、その判断を尊重することによつて、行政権と司法権との調和がはかれるものと考える。
しかるに、わが国の下級裁判所は、往々にして、自ら行政庁の立場に立つて判断をし、よつて行政処分の適否を判断する。本件原判決はその顕著な例であつて、自ら教育委員会の立場に立つて校長適格の有無を判断し、自己の物指しにあわないからといつて、直ちに処分を違法と判断しているように見える。
(2) 公務法上の法律関係は、講学上特別権力関係といわれている。この用語については、近年学説上非難もあるが、一支配関係とは違つた特別の包括的な権利、義務の関係であることに間違はない。そして、行政の運営の円滑さを期する上からも、行政機構内の秩序の維持のためからも、人事機関の行為については、一般支配関係における行政機関の行為よりも広い裁量権が与えられなければならない。
このことを、もつとも明確に判示しているのは、最高裁昭和三二年五月一〇日判決(民集一一巻五号六九九頁)である。この事件は、警察官の懲戒処分の適否に関する事件であつて、一・二審判決は、いずれも懲戒免職を違法としているにかかわらず、この判決は、これらの判決を破棄し、自判して、被上告人の懲戒免職処分の取消請求を棄却している。その判決理由中では「……懲戒権者が懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決定することは、その処分が全く事実上の根拠に基かないと認められる場合であるとか、社会観念上著しく妥当を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を超えると認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解するのが相当である。」と述べ、任命権者に広い裁量権を認めている。むろん、本件と場合を異にし、ことに、この先例の場合はむしろ行為内容に関する裁量に見え、本件の場合は行為要件に関する裁量のように見えるが、行政裁量の本質にはかわりはなく、以下述べるような理由により、本件の場合は、右の先例の場合により一層広く裁量権を認めるべき場合と考える。
(一) 右先例の場合は懲戒処分であり、本件の場合は分限上の処分である。懲戒処分は、公務員の具体的行為について、その責任を問う一種の制裁行為であり、そのため行政処分とはいえ刑罰に近い性質を持つている。それだけに、裁量権を認めるにしても自ら限界がある。しかるに本件の場合は分限上の処分であり制裁的な意味を持たない。右の先例は懲戒処分であるにもかかわらず、判示のような、広い裁量権を認めている。本件の場合は、さらに広く裁量権が認められるべき場合と考える。分限処分の性質についてはさらに後述したい。
(二) 右先例の場合は、懲戒免職の場合であり、職員たる身分を剥奪する処分であるのに対し、本件の場合は降任であつて、職員たる地位を失わしめるものではない。懲戒であれ、分限上の処分であれ、職員たる地位を全く剥奪する処分は、当該公務員の生活権の問題に関係があり、裁量権があるといつても、自ら制約も強いものといわなければならない。先例が懲戒免職についてさえ広い裁量権を認めている以上、本件降任処分の場合、さらに広い裁量権が認められるべきは当然である。最高裁昭和三五年七月二日判決(民集一四巻一〇号一、八一一頁)〔編注:民集14巻10号1811頁には、昭和35年7月21日最高裁、昭34(オ)396号が収録されています。〕が、分限免職を違法としているのも、問題が公務員たる地位を奪う行為であるからであつて、本件の先例になるものではないと考える。
いずれにせよ、前記昭和三二年の最高裁判決が、懲戒免職をさえ是認している趣旨からいえば、本件のような降任処分については、教育委員会の裁量権の範囲を超えていないものと解するのがむしろ当然と思う。
第二、降任処分について
(1) 地方公務員法二八条に規定する分限上の処分は同法二九条に規定する懲戒処分とその性質を異にするのはいうまでもない。懲戒処分は当該公務員の具体的な行為について、その責任を追及する趣旨であるのに対し、分限上の処分は責任追及の意味はなく、行政機関が、その職責をよりよく果すため、不必要、不適格な者を排除する行政の運営上やむを得ない手段であり、従つて、そのような手段の必要性の有無も本来行政機関の責任において考えるべき問題である。ただ、身分保障の建前から、免職、降任については、処分が行政機関の恣意に流れることはゆるされないのであつて、法律はこれに一定の制約を加えるとともに、人事委員会等に対する不服申立てをゆるしているのである。
分限上の処分のうち降任は、免職と違つて、いわば、公務員を適材適所に配置する処分の一であつて、本質的には、転任、昇任と同じ性質を持つている。行政機関は職員を適所に配置することによつて、はじめて行政の能率をあげ、国民から負わされている責務を果すことができる。そしていかなる人物がいかなる場所に適材であるかは、本来、当該行政機関のみが責任をもつて判断できることであつて、第三者である裁判官の判断できることではない。ただ、降任については、配置上の問題であつて、不利益処分であるため、法律は限界を規定し、人事行政の専門機関である人事委員会等に不服申立てをゆるしているのであつて、結局は、人事委員会をも含めて行政機関の判断に委されている問題といわなければならない。ただ、その判断が社会通念上の限界を越えた場合のみ、行政事件訴訟法三〇条にいう「裁量権の範囲をこえ」たものとして、裁判所の介入がゆるされるものと解される。
(2) 校長を降任して教諭とすることも、問題を異にするものではない。教諭としての適格者は必ずしも校長としての適材とはいえない。本件の場合も上告人は被上告人の教諭としての適格を否定しているのではないことはいうまでもない。
「教諭は、児童の教育を掌る。」のに対し、「校長は、校務を掌り、所属職員を監督する。」(学校教育法二八条)校長の職務が行政事務を含んでいることは「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の規定上からも明白である。公務員がその処理する事務について、上司の職務上の命令に従わなければならないことは公務員法の規定からも明白である。行政の運営、関係法令の解釈適用について上司と意見が違つた場合に、上司に意見を述べることはもとより必要であるが、対外的な職務の遂行にあたつては、上司の判断に従わなければならない。かくしてこそ、はじめて行政の運営が円滑に行われるのであつて、このことは一般行政事務と教育行政事務とでかわりはない。本件の場合、原判決の認定した被上告人の行為は、学校統合の問題についても、勤務評定の問題についても、また予算執行の問題であつても、上司である教育委員会の方針、指示に反する行為が極めて多い。被上告人が教育者として教育に関し独自の見解を持つことは格別、このような行政に関係のある問題についてまで、独自の見解で行動するのは、その本来の性格に基くものであり、教育者としてはとにかく、教育行政の一端を担う校長としての適格に欠けるところがあるものといわなければならない。一審判決は、被上告人のこのような行為があらわれたのは昭和三二年以降に限られる点を強調するのであるが、問題がない場合に性格があらわれず、問題が起つてはじめて性格があらわれるのは当然のことであつて、このことによつて、被上告人の校長としての適格性に欠けるところがないとはいえない。
上告人は被上告人に校長としての適格性がないことに確信をもつものであるが、かりにその判断に行き過ぎがあつたとしても、それはせいぜい、当、不当の問題であつて、最高裁判決のいうような、全く事実上の根拠に基かないものでないのは勿論、社会観念上著しく妥当を欠き裁量権の限界を超えるものとは到底考えられない(社会一般の考え方では、おそらく、あれでも校長が勤まるのかというような感覚であろう。)。
(3) 原判決及び一審判決によれば、被上告人は日教組の方針に従つて行動している点がある。本件当時、地方公務員法五二条は現行法どおり改正されておらず、従つて管理職とそうでない者とが同一の職員団体を組織することができない旨の規定はなく、また、現在でも管理職と非管理職との区分に明白でない点はあるが、校長は所属職員を監督する者であり管理職であることは明らかと思う。そして当時においても、労働組合の本質からいつて、管理職は組合に加入すべきではなく、また、組合のために活動すべきものではない。このことを考えれば、被上告人は管理職たる校長たる適格を有しないこと一層明白と思う。(老婆心からいえば、被上告人は管理職でない教諭になつて、自由な組合活動をする方が本望なのではないか)。
第三、むすび
以上述べてきたことを結論的にいえば、原判決は、行政機関に与えられた裁量権についての法の解釈、適用を誤り、結局、行政事件訴訟法三〇条に違反する結果を来しているものと考える。
なお、一言附加すべきことは、判決が本件降任処分を違法でないとすることは、決して処分がいかなる意味においても瑕疵がないということではない。なお、処分の当、不当の問題は残る、本件の場合は、被上告人は人事委員会に審査請求をし、現在なお、請求は係属している。かりに本訴で、被上告人の請求が棄却されても、審査請求の利益は失われない。上告人は本件処分が不当でもないとの確信を持つているが本件の問題はむしろ当、不当の問題として人事委員会が審理判断するのにふさわしい問題のように思われる。
以上
上告代理人堀家嘉郎、同中場嘉久二の上告理由<省略>
上告代理人真野毅、同堀家嘉郎の上告理由<省略>